百三十五年丸ノ内線

昔の思い出から今の話までいろいろ(1日に何回も更新するよ!)。実体験を元にしたコスメ話や脱毛・育毛話など。ニッポンゴムツカシイ

新月のお願い / 【第17回】短編小説の集い(今回のお題は月)

何かを強く望む人が毎月密やかに行う儀式がある。

名前は新月のお願い、という。お月様に願うと、いつの間にか叶っているという不思議な儀式だ。

不思議な儀式にはいくつか約束がある。

 

1 必ず新月の日、決められた時間から8時間以内に願うこと

2 願い事は10個までにすること

3 すでに叶った状態を願うこと

4 他人の不幸は願わないこと

5 月が満ち始めたらお願いはしないこと

 

他にも細かい注意点はいくつかあるが、基本的にはこれさえ守れば、あとは何を願おうがいつの間にか自動的に叶ってしまうという。

 

女の子は誰しも、占いや魔法、おまじない、そんな不思議な力に憧れる時期がある。

実家にまだ残されている勉強机の引き出しを開けてみれば、遠い昔、ノートに他愛ないお願いごとを書き連ねた緑色のペンや、消しゴムのケースの裏にはあの頃好きだった男の子の名前、小さく小さく折りたたまれた何かを包んである紙切れ、そんなものが見つかるかもしれない。

あの子とあの子が仲良くするのは気に入らない、呪いの類も含まれた願い事の数々は、叶えられることもあるし、叶えられないこともある。

叶わないとしても、願ったという安心感が欲しいからか、新月のお願いを知った人は毎月やってくる決まった時間に月に願う。

 

「痩せなきゃ…」

と願った女がいる。

取り立ててなんの取り柄もない女だ。つい先日誕生日を迎えた34歳の女だ。名前は真美という。

都内で一人暮らしをしている。休みの日は寝て過ごしている。

そして、毎月毎月、飽きもせず月に願っている。

真美は幼いころから肥満体だった。学校の健康診断ではいつも「肥満」と診断され、社会人になれば「成人病予防のお知らせ」を貰うような女だ。

痩せなければ、と独りごちた汚い部屋にスナック菓子の空き袋がいくつも落ちている女だ。

ルーティンワークのように、真美は毎月願っている。

今月も叶わなかった、と落胆しながら、たまに思い出したように埃の被った体重計に乗り、増え続ける数値にため息をつき続ける生活をここ2年ほど続けている。

みんなのいう「なんでも叶う」という状態がなかなか訪れず、願い事の書き方が悪いのだろうか、と願い事の文例を書いた幸せそうな色とデザインで彩られたブログを、汚い部屋で読みふけっている。

真美は焦っている。

あともう少しで新月のお願いをする時間がやってくる。

毎月手帳にきっちりと10個、願い事を書き連ねている。

痩せたい、痩せたい、痩せたい。

痩せれば自動的に素晴らしく明るい未来がやって来るはずなのだ。

お願いごとの文例を必死に見つめる真美は手元の手帳に気持ちをぶつけている。

 

 すんなりと痩せる

 気がつかないうちに痩せる

 一気に体重が減る

 いつの間にかパンツがゆるゆるになる

 体が軽くなる

 きれいな部屋でのんびり過ごす…

 

雑誌や本やCDや化粧品、お菓子の空き袋やペットボトル、試しに買ってみたものの2度ほど使ってそのままになっているマニキュアや、そんなものと髪の毛と埃と脱ぎ捨てた靴下の片方で埋め尽くされつつある床の一角に手帳とペンを置く。

汚い部屋に赤い革の手帳と革の色に合わせたパーカーのボールペンは大変似つかわしいが、真美のこだわりとして手帳だけは綺麗なものを使っていた。

今月もお願いをしたから大丈夫、と、湿り気のある万年床に怠惰な体を投げ出して、願い事が叶わないのは願い方が悪いせい…と落ちる瞼の裏側で考えている。こんなに強く願ったのだからいつか願い事は必ず叶うはず、と。

 

朝、布団からすんなりと離れることが真美にはとても難しい。スマートフォンのアラームはスヌーズ機能で5度も鳴る。延長を繰り返して遅刻寸前の時刻にようやく目を覚ます。服は適当に床から拾い、髪を梳かして眉だけ書く。

満員電車に40分揺られると会社に到着するが、乗り換え駅のキオスクでいつも菓子パンかおにぎりを買う。会社のデスクでそれらを口に運びながら、甘い紅茶で喉を潤し、机の一番大きな引き出しに入っているスナック菓子を無意識に口に運んでいる。

「なんで痩せないのかなぁ?」

と思い出したようにダイエットの方法を書いたブログを読みふける。

有酸素運動プロテイン、スープダイエット、ハリウッドセレブおすすめ、炭水化物抜き、かんたんストレッチ。

いくつ見ても「続けられないや」とページを閉じる。

大丈夫、願ったのだから叶うはず。みんな願いを叶えたと書いていたもの、という独りよがりな思惑と願い事に対する期待とともに真美の体は肥えていく。

 

「今月も叶わなかった」

体重計から降りる。真美の最後の抵抗は全裸になって体重計に乗ることだった。健康診断では服の重量を抜いてくれるけれど、全裸になれば健康診断のときよりも軽くなるはず、と思い込んでいる。体重計が悪いのかもしれない、と体脂肪率が測れるデジタル体重計を新調したが、増える数値にため息しか出ず、今は気が向いたときに体重しか測らない。

もうすぐ新月のお願いの時期がやってくる。

書き方が悪いのかも、と今月も新たに願う。

 

痩せたい、痩せたい、痩せたい、痩せたい…。

 

布団に身を横たえて、来月こそ、と強く願う。

寝付きが悪い。なかなか起きられない。またキオスクでパンを買う。最近は喉がとても乾くから1.5リットルの午後の紅茶を買う。ジュースよりはカロリーが低いからお茶を選んでいる自分が偉い、と心の中で褒めている。

毎日40分も満員電車に立って乗っている。満員電車はカロリーを消費すると知らない人のブログに書いてあった。窮屈で大嫌いで、こんなに努力をしているのに、なぜ痩せないのか、とイライラしながら会社に向かう。

 

東京に大雪が降った。

雪の中、足元が滑りながらも会社に行くと、電車が止まって出社出来ない社員の幾人かが休みの連絡をしてきたところだった。

「あ~あ、私も休めば良かった」

コンビニの袋から大きな肉まんを取り出す。指先まで冷えてしまって、いつもの菓子パンのほかにホットスナックを買った。

肉の香りが真美の周囲に立ち込めて、電話を受けていた幾人かの社員のうちの一人が嫌な目で真美を見ている。

あの嫌な視線も、痩せさえすれば、自分の醜い体が綺麗になれば無くなるのだ、と真美は信じ込んでいる。

ここのところ、真美は食事のあとのひどい眠気に襲われている。眠気と戦いながらパソコンに向かっていたがいつの間にか眠り込んでいたようだった。内臓に血液が取られるから眠くなるのね、と真美は思っている。食事をしたあと眠くなるのは仕方のないことなのだ、と。

ガタンと大きく机が揺れる。真美が慌てて目を開けると、朝、こちらを睨みつけていた同僚が真美を見下ろしていた。

取り繕うようにパソコンに目をやると、同僚は立ち去った。

「あの人、辞めればいいのに」

真美は思う。来月はあの人のことを願おう、と。

 

また新しい新月がやってきた。

真美は早速手帳に願い事を書く。新月のお願いの約束事・他人の不幸は願わないことの項目に注意しながら強く願う。

「私はあの人とは無関係の生活を送っています、っと」

手帳に書いた。書けば叶う。書くだけで叶う。幾つものブログやホームページにそう書いてあったのだ。書けばいつか必ず叶う。時間がかかっても。

強く信じているのには理由があった。

2年間毎月祈り続けてきた願いが、叶いつつあったのだ。真美の体重は緩やかに減り始めていた。何も生活は変えていないが、真美の足元の体重計は前回よりも少ない数値を示している。体重計の故障かと思って、以前使っていたバネ式のものでも測ったが、おおよそデジタルの体重計と同じ数値を示している。

「やっぱり新月のお願いは本当だったんだ」

真美は嬉しくなり、新商品のチョコレート菓子を食べているうちに眠り込んでしまった。 

 

最近は、ひどく冷える。手足が冷たくて眠るのに時間がかかる。大寒を過ぎたばかりの東京はひどく寒い日が続いていた。エアコンを強風にしても、布団の中ではいつまでも冷たい手足のまま2時間も起きていることがある。足の裏の感覚が無くなるほど冷えており、布団を買い足しそうか考えているうちにようやく眠りにつく。

朝は相変わらず起きられない。仕事中によく眠ってしまう。その割に食欲はある。

 疲れやすい気がしていた。体重が減り始めてから、満員電車が辛くて仕方がない。書けば叶うのだから、と途中で買う菓子パンの個数を増やしてたくさん食べてもちっとも力が湧いてこなかった。

「…さん、近藤さん、聞いてんの?」

不機嫌を多分に含んだ声が真美の斜め上から落ちてきた。いつの間にかまた眠っていた。あの辞めればいいと願った同僚が真美を嫌そうな目で見ていた。

その目つき。いつもなら「消えてしまえ」と心のなかで思うくらいで済むのに、その日の真美は無性に苛立っていた。なぜそんな行動に出たのか、今思えばよくわからない。

「聞いてますよ!」

まだ残る自分の眠気を振り払うように声をあげ、机を強く叩き、勢い良く立ち上がり、そのまま後ろへ昏倒し、目の前が真っ暗になった。

 

真美が2型糖尿病と診断され、緊急入院となったことを自覚したのは、入院から4日経ってからだった。個室で目を覚ますと、無表情な妹の顔があった。

「…豚が目を覚ました」

真美は妹の冷たい目に、酷い状態の自分が映っているのを見た。

意識を取り戻したあと、両親と一緒に医者から検査結果を聞いた。かなり症状の進んだ糖尿病であり、合併症を起こしている。食事制限と運動だけではもはやどうにもならず、神経障害により足のくるぶしには壊疽が起きていた。

真美は自分では全く気がついていなかった。自分の体の見た目に無頓着すぎた結果が招いたものだった。緊急入院で2週間、その間に投薬治療が開始されたが数値に変化が見られず長期的治療が必要となった。

壊疽により足の一部を切断、清潔すぎる病室でぼんやりとしている間に、一度だけ会社から上司がやってきて退職勧告を受け、真美はその場で退職届を書いた。

 

ようやく桜の蕾が膨らみかけたころ、汚い部屋の入り口に立った。

マスクとゴーグル、軍手をして、何枚もゴミ袋を持ち込んで、目についたものは片っ端から袋に詰めた。

今日は主に片付けをしていた両親がおらず、一人で掃除をしなければならない、と気合を入れた。

菓子袋が多く落ちている。脱ぎ捨てられ丸まった何足もの靴下やストッキングが机の下にいくつも投げ込んである。長い入院生活の間にカビが生えてしまったカップラーメンの容器も捨てる。部屋の床が広くなる。溜め込んでいただけの雑誌も、雑誌の表紙にある服も。

玄関ドアの外にはゴミ袋がどんどん積み上がり、妙な達成感と清々しさ、ざまぁみろ、という気持ちが湧き上がってくる。

8個目のゴミ袋を玄関先に運び終わり、ふと目についた汚い部屋に似つかわしい赤い革の手帳。

ページを繰ると、筆圧が高めの黒い文字がズラリ、と並んでいた。

欠かさず毎月書いていた新月のお願いの、呪いのような「痩せたい」の文字に、マスクの奥で少しだけ笑う。

「お願い、叶って良かったじゃん、お姉ちゃん…」

 

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