百三十五年丸ノ内線

昔の思い出から今の話までいろいろ(1日に何回も更新するよ!)。実体験を元にしたコスメ話や脱毛・育毛話など。ニッポンゴムツカシイ

【初心者枠】彼女の思い出

「…帰ってェおくれぇよ オイラのぉオイラのぉむ~ねぇにぃ~」

カラオケボックスのドアを開けると、知らない声がカズキの耳に届いた。

木曜日、午後6時47分。

先週から仕事は山積み、トラブル続き、カズキはストレスフルの状態だった。

「このままでは倒れてしまいます」と無理矢理もぎ取った明日の代休、三連休。

一人カラオケ

カズキの、密かな楽しみ。

会社から乗り換えの駅までは30分、頑張れば18時28分に入店でき、1時間分を18時台の料金・30分80円で楽しめるのだ。

「は…?え?あっ、すいません!」

部屋を間違えたと思い慌ててカズキは慌ててドアを閉めた。

フリードリンクを付けたせいで、トイレが近くなって、一つ下の階の男子トイレから戻ってきたところの不思議な光景。

部屋を間違うなんて初めてだ、相当疲れているのだろう、早く自分の部屋に戻って、シメの一曲を歌わねば…と意味の分からない照れ笑いが口元に浮かびかけた。

が。

803号室、いつもの部屋。

女子トイレの真横、JOYSOUNDの後継機種・Crossoが入っている部屋。

ヒトカラの嗜み、電気は付けない。

身を屈めて部屋の中を見ると、自分の鞄がソファの上においてあるのが見えた。

カズキはしばし呆然、その後憮然とした顔つきになり、なんだ、あの女…と思いながら、身を屈めたついでに部屋の中を観察する。

ソファの上に裸足で立って、両手でマイクを持って、背の低い女が画面をまっすぐ見つめて歌っている。

店員を呼ぼうかとも思ったが、残り時間も少なく、密かな楽しみを邪魔された苛立ちもあった。

カズキがもう一度ドアを開けると、大音量の中、いつの間にかドアを見つめていた女とカズキの視線がぶつかる。

ヒトカラくん!めっちゃ寂しいねー!!!」

ドアを開け放っているせいで、マイクを通した酷い言葉がフロア中に響いた。

 

「だーかーらぁ!電話が鳴ってたから取っただけだって!」

「はぁ…?」

すぐ店員を呼べば良かったのだ、とカズキは後悔し始めていた。

女は酒の匂いがした。

酷く酔っ払っているらしく、ときたま呂律が回らないどころか、一瞬停止し空中を見つめ動作を止め、かと思えばまたすぐ動き出す。

カズキがゆっくり事情を聞くとどうやらフロントからの呼び出し音がトイレの中まで聞こえたので、勝手に出てくれやがった、ということまで理解することが出来た。

「でね?延長するかぁ、終わるかぁ、わかんないじゃん?」

「で、勝手に延長したんですか?」

「勝手に、じゃないよー、うふふ。いいですかー、いいですよーって声がしたの、ふふふふっ」

女は一人でおかしそうに笑う。

カズキは目の前の珍妙な女に絶対に関わってはいけない危険人物、という判断を下した。

「とにかく、俺は延長はしないです。鞄取ってもらえますか?」

ヘラヘラしている女の尻の下に敷かれている自分の鞄を見つめながら、強めに言葉をぶつけると、突然女がヘラヘラした顔から真顔に戻って、すぐ目にいっぱいの大粒の涙を浮かべ始めた。

「だってぇえー!一人なんだもん!一人なんだもーーん!」

カズキはうわあん、と大声をあげて泣き始めた女を、放って帰れるほど心が強くない。自他ともに認める小心者だ。

「とにかく、とにかく、落ち着いて、分かりました、分かりましたから」

「誰もわかってなあああーい!」

たとえ、その相手が、氏名年齢住所不詳のただの酔っ払い女だとしても。

 

延長を1時間の間になんとか女をなだめすかして、一つ向こう側の部屋にあった女の荷物とコートを取ってくる。

部屋のテーブルにジョッキやカクテルのコップが10個ほど置かれて、全て空になっているのを見てカズキはため息を吐いた。

 

「へへへ、ありがとねー」

1階のフロントまでのエレベーターの中で女がコートの袖に手を通しながら、あまり心のこもってなさそうなお礼の言葉を述べる。

「はぁ…」

カズキが曖昧な返事をしながら女を横目で眺めると、女はコートの袖ではないところに一生懸命腕を通そうとしていた。

「どこに手を突っ込もうとしてるんですか…」

呆れ気味にカズキが女に手を貸す。ふいに触れた腕が意外と細く、上から覗き込む形になって胸元が見え、喉の奥が緊張で少し痛んだ。

ヒトカラくん、やさしーねー!」

動く女の身体から、甘く爽やかで、どこか懐かしいような香りが立ち上ったのを、モテなさすぎた男の悲しさゆえについ胸いっぱいに吸い込む。

ポーン、と音がして、エレベーターが1階につくと意外なほどしっかりした足取りの女がサっとレジへ近づき、それからカズキに手を差し出すが、カズキはそれが何を意味しているのか分からなかった。

「でんぴょー」

「は?」

「で・ん・ぴょー!」

カズキの手の中の803号室の伝票。女の手には801号室の伝票。

よくわからないまま803号室の伝票を女に手渡すと「一緒で!」と女が言う。

いいです、とカズキが遠慮するより早く、女は1万円札をペチン、とカウンターに置いて支払いを済ませてしまっていた。

 

「…で、22歳まで童貞でぇー、彼女だと思ってた人は二股でぇー、今27歳でぇー、セミ童貞でぇー?」

「やめてください!」

女は酷く強引で、ごめんごめん、と謝りながらカズキに腕を絡ませ、お詫びに酒を、と誘ってきた。

最初は「帰ります、困ります」と言っていたカズキだったが、断り続けていると女の目に涙が盛り上がって来るのが見えた。おかしい女だとは思ったが、このまま家に帰ったところですることもないのだし、明日は休みだし、それに、と悲しい男の本能がムクリ、と心の中で膨らんでしまった。

女はアカリ、と名乗った。29歳、崖っぷち、美人とは言い難いがとんでもなくブス、というわけでもない、どこにでも居そうな顔。そして、巨乳。

荒れ果てていたのは得意先との会議中にセクハラに会い、抵抗したら会社に電話され、直帰でいい、連絡があるまで自宅待機と言われ、フラフラと乗り換え駅まで来たら密かに片思いしていた男が自分の同僚と仲睦まじげにランチをしているのを見て…。

何度も何度も言葉が行きつ戻りつしながらアカリが説明するのを、適当に相槌を打ちながら聞いていた。

酒が進むにつれ、カズキの心のジクジクしている部分を、アカリは容赦なく攻撃してくる。

「だって、キミ、すごーく『いいひと』で終わりそうだよね。『あの人、いい人なんだけどー』って」

ケタケタと笑いながら、グサグサと心を抉る言葉を容赦なく打ち込んでくるアカリに、これ以上付き合う必要もないはずなのにカズキは席を立たずにいた。

このまま、怒って席を立ったらアカリはまた泣き出して、周りの客に痴話喧嘩だと思われるのが面倒だ、だとか、最近女性と会社の事務的な会話以外で言葉を交わしたことがないな、だとか、いい匂いがする、だとか、様々な考えがグルグルしていた。

何よりも、あわよくばワンチャン…行きずり、後腐れ無く…などと考えているうち、カズキの視線はアカリの胸元に落ちていた。

ばっ、と目の前に手のひらが突き出され、カズキはビクっとアカリの顔を見た。

「5000円でいいよ!」

「はっ?!」

「おっぱい!揉みたいんでしょ?5000円でいいよ!」

 

人生には、と思う。

よく分からない瞬間と選択が沢山ある。

変な女と知り合って肌を合わせるまで、6時間。

そんな事もあるのかもしれない、と安ホテルの薄暗い中でカズキは考えている。

酒を飲んだ割には、あまり酔っていなかったのだろう、左手とマウスがなくても立ち上がった自分、偉いぞ、と褒めたい気持ちもあるが、心中おだやかではなく、常に色々なことが頭を駆け巡っている。掛布団の下で気をつけ、をした状態で天井の模様を端から数える。

「なんだか面倒なことになったな」

視界の端には、カズキに背中を向けているアカリの、シーツからはみ出た背中が薄暗い照明に照らされてやけに白く浮き上がっている。

このまま逃げてしまおうか、と考え、身体を起こそうとしたがやめた。ここで逃げられるほど心が強くないからだ。

もし、おっぱいを揉むだけで5000円なら…欲望を吐き出した代金はどのくらいだろう、と思うとまた眠れない。

「寝ないの…?」

難しい顔をしているカズキに、アカリが背中越しに声を掛けてきた。

「起こしちゃいましたか?」

「んーん…ヘンな女に捕まってご愁傷様」

アカリの甘えるような声、白い背中のスベスベした感触、触りたい気もする、手を少し動かせば、届く肌。

ヒトカラくん、ほんとにいい人だね、わたし、そういう人好きよ」

好き。

アカリの調子のいい嘘だ、この女はヘンなんだ、自分はからかわれているだけだ、と、カズキはにやけそうになる口元を抑えるために天井を睨みつけた。

ゴソ、とアカリが動き、布団の中のカズキと肌が触れ合った。

「じゃー、もう1個あるから、しよっか?」

 

 

女はセックスで情が沸く。男はセックスで性欲が蘇る。

「ボクのほーがおかねをだしておつりはキミがもらって こんなことはなかったーすこしーまえまではー…」

風呂場から、アカリの鼻歌が聞こえる。アカリが風呂に入るといつも懐メロばかり歌っている。

「でーたーよー」

髪の毛をタオルでガシガシと拭きながら、カズキの部屋着を着たアカリが現れた。

「ちょっと!水が垂れてますよ!」

「お風呂に入ったらしょーがないんだもーん」

ペタン、とアカリがカズキの横に座り、カズキの部屋に置きっぱなしの化粧水をペシャペシャと顔に塗り始める。

「おーふーろー、入ったほうがいいよ?くっさいから」

「えっ、くさいですか?」

焦って自分の腕を鼻に近づけたカズキを、目を閉じたアカリがクスクス笑っている。自分がそういえば、カズキはこうするだろう、と確信しているのだ。

「うーそー」

「アカリさん、ニオイフェチですもんね…」

「そーそー、ニオイフェチー!」

アカリがガバッとカズキに抱きつき、胸の辺りに顔をうずめてニオイを思いきり嗅いでいる。

「はぁ…ええにおいやで…」

うっとりした表情のアカリの呼吸の温さを胸に感じつつ、「ええにおいなのはアンタでしょうが」とカズキは思う。初めて出会ったあの時も、酒に混じって香ってきた香水を思い出す。

「…お風呂、入りますね」

アカリを引き剥がしながらカズキが立ち上がる。

「分かった、覗きますね!」

アカリは敬礼のポーズをしながら、カズキを丸い目で見つめていた。隙あらば、覗くぞ、という意気込みを瞳に宿して。というよりは、隙があろうがなかろうが、風呂場の内鍵を施錠しなければ確実に足音を潜めて覗きたがるのがアカリだった。

一度カズキは風呂覗きについて喧嘩上等、と抗議したが、アカリは口を尖らせて目に涙をいっぱいに溜めて

「だって好きな人のこと、全部知りたいんだもん…」

と絞りだすように言うので諦めた。

それからトイレ覗きが始まったので、それはさすがにやめてくれ、と懇願したこともある。

「はぁ…」

シャワーの40度のお湯を頭から浴びながら、カズキの口からほっとした息が漏れる。ヘンな女と知り合って、ワンチャンで終わるはずが、いつの間にかこうなっている。付きあおう、とも付き合わない、ともいう言葉もなかった。それが大人の恋愛の仕方なのかもしれない。

珍しく、気配を背後のドアに感じないな、と思いながら部屋に戻ると、アカリが愛用の香水を空中に放ってくぐっているところだった。

「おーかーえーりー」

香水の儀式をアカリがカズキの部屋で行うようになってから、カズキの持ち物にアカリのニオイが沁みこんでいく。

アカリと出会ってから、自分に自信がついたのか、仕事も快調だった。会社の女の子から食事の誘いのメールが来た。

アカリは自分にとって女神かもしれない、とカズキは思い始めていた。

 

「じゃー、寝ますか!」

豆電球だけつけて、カズキが布団に潜り込もうとアカリに背を向ける。

ゴツッと硬い音がした。薄暗い部屋、机の角に頭を打ちつけながら膝を折ったカズキの肩越しにちょっと意外だ、とでも言いたげな、目を丸くしたアカリの姿。

「なんで…?」

やっと絞り出した声を受けて、アカリが微笑んだ。

アカリの左手にはカズキの携帯。右手にはジャンヌアルテスのアモーレミオ。

「見たかったの」

2回目の硬い音、カズキの頭は燃えるように熱かった。

だって好きな人のこと、全部知りたいんだもん…

むせ返りそうな偽物のりんごの香り。

薄暗い部屋の出来事。

 

………

 


【第0回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - Novel Cluster 's on the Star!

 

 

……

もう一つのお話


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