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ーこの病の難しいところは、広く症状や病の存在が認められているにも関わらず、決定的な治療法がない、ということです。
ー動機、息切れ、食欲不振、めまい、不眠、息苦しさなどを感じる事が多く、躁鬱にも似た状態に陥ります。ふいに涙が出てきたり、悪いことが起こるのでは、と妄想して落ち込んだり、被害妄想に囚われます。
ー大変に、大変に治りにくい難病ですが、ある日突然症状が消えて無くなることもあるのです。
「嗚呼、先生、わたくしはどうしたら良いのでしょう?」
ーまずは、この症状が出る、この病に悩まされている、ということを忘れ、趣味などに没頭するのが良いでしょう。ですが、唯一の特効薬は大変に手に入りにくい。ならば、脳と心を忙しくして、病のことを考えず、感じずに居るほうが良いでしょう。
「嗚呼、先生、時間が経てば病は消えて無くなるのでしょうか?この胸の息苦しさは」
ーきっと、あなたなら病に打ち勝つ事ができるでしょう。私はあなたを応援していますよ。
凛子は胸を押さえながら目を開けた。
脳内で会話をしていた白衣の名医はスっと消えた。
水面から出ている膝のふたつの山を見る。
胸がドキドキと鼓動を打っている。
耳や頬のてっぺんがポーっと熱を帯びている。
「のぼせちゃったかな」と思いながら、ゆっくり湯船から身体を引き上げた。
約1年前。
凛子は病に唐突に侵された。
最初は右手の手首が痛かった。湿布をしても痛み止めを飲んでも治らず、1ヶ月にも及ぶジンジンとした、ときに鋭い痛みに凛子は襲われ続けていた。
凛子は病院が嫌いだった。風邪くらいならば気合でどうとでもなる、と凛子は思っていた。
だが、手首の痛みは増していき、今度は左手まで痛くなってきてしまったのだ。
仕方なしに重い腰をようやくあげて自宅から一番近い整形外科を受診したのは、痛みが現れてから3ヶ月も経った頃だった。
「ドケルバン病ですね」
凛子が診察室の丸椅子に腰掛けるや否や、目の前にいるへの字口の白衣は言った。
「は?」
「ドケルバン、びょう」
への字口の白衣の「嶋田」の名札を付けた男は凛子の指先をつまみながら言う。
「親指を中に入れて握りこぶしを作ってください」
への字口の白衣の推定年齢38歳の「嶋田」は、詳しい説明もせず凛子に告げた。怪訝な顔をしながらも、凛子は言われた通り親指を握り込んだグーを作る。
「そのまま手首を小指側に倒してみて」
言われた言葉通り、クッと小指側に手首を曲げる。
「痛っ…」
「痛いでしょ、じゃあドケルバン病です。手の使いすぎです。スマホとか、パソコンとか。使わなきゃ治ります。お大事に」
「え?」
への字口の白衣の推定年齢38歳の男にしては目の大きい「嶋田」は凛子のカルテに何語か分からないグチャグチャした文字を書いている。への字口の白衣の推定年齢38歳の、男にしては目の大きい、きっと彼女なんて居ないんだろうな、と凛子に思わせる左手の薬指ががら空きの「嶋田」は、その大きな目でこちらを見ることもしなかった。
ナースに促されて、凛子は診察室を出た。顔には「不満」の文字がくっきり見えるほど、凛子は診察内容が不満だった。
何枚もレントゲンを撮って、待って、診察時間はたったの4分、湿布を3袋処方されただけだった。
1ヶ月後。
もう一度同じ整形外科を受診した。
人気らしく、いつも混んでいる。整形外科に来る病人は、たいてい元気で、元気が良すぎるからこそ整形外科を受診しているのだ、と凛子は思っている。だから、待合室はいつも賑やかで、それにも凛子はイライラした。
2時間ほど待って、ようやく名前が呼ばれる。診察室に入り、嶋田に「どうぞ」と言われるまでもなく、丸椅子に座る。
「治らないんですけど!」
凛子は少しだけ声を荒げて嶋田に訴える。
カルテに目を通していた嶋田がチラリ、と凛子を見た。
「手を使うから治らないんでしょ」
事も無げに言う。
凛子の顔に「不満」の文字が大きく現れるのと同時に、嶋田は凛子の手を取って、指の一本一本を押したり捻ったりした。
「簡単に言えば腱鞘炎です。使わなきゃ治ります。親指のここが」
嶋田がグッと力を入れる。鋭い痛みが凛子を襲った。
「腫れてるから、手首まで痛む。炎症を起こしています。だから使わなきゃ治るんです」
「だって手を使わないで生活するなんて出来ないでしょ」
凛子の指を不躾にグニグニ触る嶋田に訴える。こんなに指や手をグリグリ、グニグニ、他人に触られたのははじめてだった。
「使わなきゃ治ります。仕事は?」
「事務です。営業事務…」
嶋田はせっかちなのかもしれない。凛子が嶋田の言う言葉を理解する前に質問が来て、面食らってしまう。
「パソコンをお使いになる?」
「はい」
「スマホは?」
「使います」
「どのくらい?」
「分からないですけど…3~4時間くらい…?」
「じゃあスマホを禁止してください」
「は?」
「スマホ、禁止、です。それで治りますから。じゃあお大事に」
嶋田の矢継ぎ早の言葉に圧倒されて、凛子は診察室を出た。
会計に呼ばれるまでの短い時間で、凛子の顔にはまた「不満」の文字が浮き上がった。
「なんなのよ、嶋田め!」
病院を出てから凛子の胸に怒りがふつふつ湧いてきた。
なんなのよ、なんなのよ、と口の中で繰り返しながら、病院と自宅の間にあるコンビニでシュークリームとプリンとエクレアとコーヒー牛乳を買って帰り、帰ってすぐにむしゃむしゃと食べた。
嶋田のへの字口を思い浮かべながら、このシュークリームもプリンもエクレアも嶋田を噛み砕いているのだ、と思いながら食べてやった。
凛子は真面目だ。
派手な顔立ちや外見とは裏腹に、とても真面目で古風な女性だ、と自分で思っている。
だから、禁止されたなら絶対にスマホなど使ってやるものか、治らなかったら今度こそ嶋田を怒鳴りつけてやる、と思っていた。
真面目に、嶋田に言われたとおりに凛子はスマホを禁止した。どうしても使う時は机や床において操作した。
凛子は意地になっていた。
1ヶ月後。
凛子の手首はほとんど痛まなくなっていた。
「そうですか、ちょっと診ますね」
凛子はまた整形外科を受診していた。
今度は「どうぞ」と促されてから座り、「どうですか?」の言葉を待ってから「痛みが減りました」と伝えた。
嶋田が凛子の手を取って、またグニグニ、グリグリと押したり引っ張ったりする。
「ここはまだ少し痛いですか?」
ギュウ、と嶋田が凛子の親指の膨らみをゆっくり押した。
「はい、ちょっとだけ…」
「ここは?」
今度は手首の真ん中を中指でトントン叩いた。
「大丈夫です」
「もう少しで完治します、良かったですね」
嶋田が凛子の指からそっと手を離した。
「ありがとうございました」
凛子にとって、この日は受診後のやけ食いを初めてしない記念日になった。
スマホ禁止が発令されてから2ヶ月後。凛子の手の痛みはすっかり消えていた。
そういえば、と凛子は思い返す。
手の痛みが出た頃は仕事がとても忙しく、何時間も入力作業を続ける日が続いていた。
スマホじゃなくってパソコンの使いすぎだったのよ、と凛子は思いながら、会社の最寄り駅のホームで来週の女子会の会場である個室居酒屋の口コミをスマホで見ている。
「真島さん?」
唐突に男の声で名前を呼ばれる。
振り返ると嶋田が立っていた。
「あ…先生…こんにち…こんばんは…?」
白衣ではない嶋田を病院ではない所で、こんにちはとこんばんはの間の微妙な時間に見た。
レアなものを見た、という気持ちと、どうしてこんな所に、という気持ちと、あんなに大量にいる患者の名前をいちいち覚えているのか、という驚きとで、凛子はほんの少しだけ頭が混乱した。
「スマホは禁止です」
驚いて何も言えない凛子に、嶋田が言う。
最後に診察してからすっかり痛みが無くなっていたため、病院には行かなくなっていた。
「もう痛くないです」
「うん、痛くなくてもまだ禁止」
嶋田がふいに凛子の手を取った。グニグニ、グリグリ。
「痛く、ないですよ」
凛子は握られている手を見た。急に恥ずかしい気持ちが出る。けれど診察の続きだろうし、振り払ったら自意識過剰すぎるだろうし、と、どうしたらいいのか分からなくて、しばらくの間、嶋田に指や手のひらを自由にされた。
「痛くなくても、まだ禁止で」
意外と身長差があるのだな、と嶋田の顔を見上げながら凛子は思った。
「なんでですか」
凛子の顔に少しだけ「不満」の字が浮かぶ。
「また痛くなったら真島さんが困るでしょ?」
「そしたらまた先生のところに行きます」
一瞬の間のあとアハハ、と嶋田が声をあげて笑った。
「じゃあ、スマホ使っていいですよ」
への字口しか見たことがなかった嶋田の、笑った口元の、右側に、八重歯がある、と凛子は発見した。
ゴウ、っと空気を切り裂いてホームに入って来た凛子の家とは逆方向の電車に、嶋田は「じゃあ」と手を離しながら乗り込んで去っていった。
凛子は、嶋田にグニグニ、グリグリされた手を無意識に撫で合わせていた。
凛子は湯船に身体を沈めながら、脳内の医者と会話する。
大変に治りにくい病で、特効薬は手に入りづらく、色々な不調が身体に現れる病について。
医者はいつも「あなたなら乗り越えられる」と気休めの言葉を凛子にかける。
そんなこと言ったって、と凛子が脳内の名医に訴えても、医者は「大丈夫、大丈夫」というだけだった。
凛子は真面目だ。
派手な顔立ちや外見とは裏腹に、とても真面目で古風で奥ゆかしい女性だ、と自分で思っていた、昨日までは。
秋冬の新色のアイシャドウに、リップは控えめにして、ネイルはアイシャドウに合わせたプレーンなグラデーション、デートなら香水でも付けるのだけど…と思いながら凛子は部屋を出た。
今日も嶋田整形外科は大変な盛況で、病院で顔見知りになったのであろう患者たちは腰が痛いだの足が痺れるだのお互いの身体の悪いところ自慢をしていた。
3時間も待って、ようやく凛子の名前が呼ばれる。
診察室のスライド式のドアを開けた。
「痛みが再発しましたか?」
凛子が丸椅子に腰掛けるまでの数秒で、嶋田が聞いてくる。
チラリ、と見渡した診察室にいつものナースの姿はなかった。待ち時間がいつもより長かったのは嶋田が一人だからだろうか。
椅子に腰をおろした凛子が嶋田を見る。大きな目だな、と思う。
「スマホ、使ってしまったので…」
嶋田が手を差し出した。凛子の手を「置け」というのだろう。凛子は素直に従った。
グニグニ、グリグリ。
「痛みますか?」
「痛くは、ないんです、けど…」
「…けど?」
嶋田がグニグニ、グリグリするのをやめて、凛子の目を覗き込んだ。
「先生に、会いにきました」
凛子の手に添えられていた嶋田の手にギュ、とほんの少し力が入った。
凛子の脳内の嶋田の顔をした名医が言う。
ー特効薬は、恋が実ること。
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過去に参加したお題小説
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この小説の振り返り
「のべらっくすさんが閉鎖の危機(?)だけど、なんも書きたいテーマが…」
ねぇな、と思ってたのですが、昨日、倖田來未さんのBlu-rayを見ながら涙ぐんでたときの曲が「恋のつぼみ」だったので記念に書きました。
恋したいっすね!したいっすわ!
めちゃくちゃ好きやっちゅーねんって言いたいわ!
これを読んで誰かキュンキュンしてくれたら嬉しいと思います。
キュンとトキメキは大事だよね!知らないけど。
解析サイトを使って文字数チェックをしています。
過去の全部の2作品ともに
>地の文が多め、テンポ・感性重視って出てきます。
声に出した時にスラスラ読める文章を書いてるのでそりゃそーだ、と思っています(昔からのクセ、ラジオドラマ大好きっ子の弊害)。
それにしても明るい文章慣れないです。
いつ凛子の手首を切り落としてやろうか、嶋田を殺してやろうか、とかそればっかり考えた3時間でした。
うん、3時間で書いたの。
それ以上はたぶん私が凛子になってしまってキュン死する(自分を登場人物に投影しないと何も書けないので)。
みんなも短編小説書いてねー!
ほんならねー。
※追記
タイトルつけるの忘れたから大急ぎでつけたらすごいセンスないので誰かタイトルつけてあげてください…。