おそらく、あかりは世界で一番自分が地味なのだろう、と思って生きてきた。
29年間、そう信じて生きてきた。
会社では目立たぬ営業補佐という役回り、時たま、営業マンのかわりに打ち合わせを任される程度には信頼されているが、仕事ができるか、といえば答えはノーだ。
地味なあかりが、新聞や週刊誌に載ったのは人生のなかで一番輝いている瞬間だった。やっと誰かに必要としてもらえたこと、誰かに注目されたこと。
「私はただ、好きな人の中を見てみたかったんです」
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自分の身体には、本当はいくらの値打ちがあるのだろう、と思った。
自分の担当している営業マン・田岡がどうしても行けない、という古くからのお客様へ書類を届けに行くだけのはずだった。取引先は老舗と言われるメーカーで、旧体制が土台に染み込んだ親族経営の会社だ。そこへ、田岡から頼まれた書類を届け、見積もりを貰い、帰ってくるだけ、それだけのはずだった。
「あかりちゃん…って言ったっけ?キミおっぱいおおきいねぇ…」
舐めまわすように品定めをされる視線は初めてではない。嫌だから自衛をしていたはずだ。大きめの似合わないブラウス、大きめのジャケット。
「泣いてあげてもいいんだけどね…?」
目の前の見積もりを、トントン、と指で叩く営業課長という肩書の親父。
「キミの啼き声も聞きたいよねぇ…?」
あかりは地味な女だ。
自他共認める地味女、そして非モテ、会社では後輩になんて言われているか知っている。
ー羽山センパイが結婚出来たら絶対相手は年上のハゲだよね~
ー結婚式呼ばれたら絶対写メる!
「おっしゃっている意味が分かりません」
目の前の営業課長の目をまっすぐに見つめる。
「キミも大人なんだからわかるでしょう~?」
ネッチリした嫌らしい声だ。早く帰りたい。会社も居心地が悪いけれど、ここも居心地が相当悪い。
「お見積りをお預かり致します。失礼します」
見積もりに手を伸ばしたあかりの手首を、ハゲた営業課長は無遠慮に掴んだ。
「ブスが、調子に乗ってんじゃねえ」
ドスの聞いた声なのに、顔は笑顔のままだ。これが営業マンというものか。
あかりは背中が一気に冷え、その手を振りきって見積もりを受け取ることもせずに窓もない部屋を飛び出した。
ー私はなんの取り柄もない人間です、ただ少し胸が人より大きいから好奇の目に晒されたことはあります。
スイカが入ってるみたい、と言われたこともあるし、すれ違いざまに「でけぇ胸!」と嘲笑われたこともある。
あかりは知っている。そのあとに「顔は残念だな」と嘲笑の感想がつくことも。
我慢していたが、視界がぼやけ始めている。
いけない、とあかりは下っ腹に力を込めた。
こんなところで泣くものか、泣くものか。
見積もりを受け取れなかったことを田岡に報告するために、震える手を抑えてスマホを操作した。
なぜ受け取れなかったのか、理由を尋ねられて「セクハラをされた」と正直に伝えると「羽山さんが?」とカッコワライがつく物言いに、悔しくて涙がでそうになる。
「まぁ、とにかく早く戻ってきてよ、仕事山積みなんだからさ!」
心配もされない、そんな価値のない私。
もし後輩の女の子が同じメにあったら、きっと田岡は憤慨するのだろう。
世の中の何もかもが嫌だ。会社も、私のとなりを笑顔で歩いて行くベビーカー連れの母親も、ショウウィンドウの奥で接客している販売員も、何もかも!
それでもあかりは真面目で地味で、与えられた職務だけは全うしようという意地があった。だからこそ、寄り道もしないで駅にまっすぐ向かい、早く帰社して仕事を片付けようと思っていたのだ。
そこへ、会社からの電話。
「あ、羽山さん?おつかれ~」
ああ、田岡の声ではなく、この声は部長の声。
「…田岡から事情は聞いたよ。今日は直帰でいいからね。まぁ、羽山さんも疲れてるだろうし、しばらくは有給消化ってことで…また連絡するから」
呆然とした。
なぜ?なぜ?私は被害者なのに?
目の前が真っ暗になる。現実感が全くない。疲れてもいないのにふわふわとした感覚。それでもしっかりと改札に定期入れをあて、自宅方面の電車へ乗り込んでいる。
不真面目になりきれない自分にも嫌気がさした。
乗り換えのターミナル駅では、平日の真っ昼間だというのに若者が楽しそうに歩き、家族連れも目立つ。仲睦まじげな熟年夫婦が腕を組んで歩いているのに反吐がでそうだった。
「…キラキラしやがって…」
すべてのものが憎たらしい。
こんな気持ちで家に帰っても、またどうせつまらないことを考えて、無駄に涙を流してしまう。一人にはなりたくない。だが、こんな昼間に話を聞いてもらえる友達はあかりには居ない。というよりは、あかりは弱い自分を誰かに見せるのが嫌いだった。弱い人間は死ぬべきだ、と思っている。
だから、この弱い気持ちのまま家に帰り着いたら、衝動的にマンションの8階から身を投げてしまうかもしれない。
改札から改札へ直接行くのではなく、外へ出てみることにした。
久しぶりに歩く昼間の街は、思った以上に眩しくて、対照的にあかりの心をどんどん暗くしていく。百貨店へ逃げこむことも出来ない。世界で一番ダサい、身体のサイズに合っていないスーツを着た自分が百貨店の空間に相当似合わず居心地が悪いと思ったからだ。
そうして歩いているうちに、数メートル先を、元上司で初めてあかりの担当になった営業マンが、補佐の女の子と歩いているのを見かけた。
二人の距離は会社の同僚、というより恋人に近く、肩が触れそうな近さだった。
あかりは喉の奥がギュっと締まって痛くなる感覚に襲われた。
なぜだか後を付けてしまい、オープンテラスのあるカフェへ入っていくまでを見届ける。
あの二人はきっと。
あかりは思う。
きっと、内緒の社内恋愛、というやつなのだ。
あかりの妄想が止まらなくなる。
あの女、私が逆立ちしても一生縁のない、恋人を、いとも簡単に見つけて、幸せそうで、勤務時間中だというのに、デートなんてしやがって、会社にチクってやろうか、でもそうしたら私の居場所が無くなるかもしれない、二人から、いや、あの元上司から、嫌われたら…。
カフェの入り口を通りすぎて、なぜ自分はこんなところにいるのかもう分からない、ただただ一人になりたい、家には帰りたくない、という気持ちで街中を歩き続けるあかりの目の前に現れた、カラオケ屋の青い看板。
朝のニュースで「ヒトカラ」なんてものが流行っている、とやっている気がする。どうせ二度と来ることはないのだし、学生時代に一度だけ来たカラオケに行ってみてもいいかもしれない。
あかりの心が少し浮上する。
カウンターで名前を書いてフリータイムで入場する。システムがよく分からないけれど店員を煩わせるのも申し訳ないと思い、勧められるがままにアルコール飲み放題を付ける。19時までに退店すれば良いらしい。
「ドリンクがお決まりでしたら1杯めをご注文ください」
店員に言われ、目についた汗を掻いたビールジョッキの写真を指さす。
部屋は801号室。甲州街道がよく見える部屋だ。
荷物をL字のソファーに置くと、すぐに店員がビールを運んできた。
借りた灰皿に灰を落として一息つけば、悔しさと悲しさと情けなさで涙が溢れてきた。
ボタボタと首筋を濡らす涙をぬぐうこともせず、あかりはしばらく泣き続け、煙草を吸い、ビールに口をつけた。
考えてみれば、午前中に出かけたきり何も食べていない腹にビールを入れたのが間違いだったのだ。
「羽山さんって新しい歌とか聞かないの?」
学生時代に一度だけ行ったカラオケで、なにか歌ってよ、の無茶ぶりに困り果てて昔祖父が聞いていた歌謡曲を入れて歌ったあと、笑いながら男の先輩に言われた言葉。
気にするものか、と続けざまに祖父が好きだった曲をいくつも入れる。あの頃は良かったなぁ。祖父が居て、祖母が居て、母が居て、父が居て、弟が居て。みんなで祖父母の家に遊びに行くと大きなスイカだのメロンだのが必ずあって、冬は不二家のケーキが置いてあって。
祖父はストーブの前が好きで、よくそこで日本酒を飲んでいたっけ。私はそこでスルメイカを炙ったのや、酒粕を焼いたのをちょっとだけ貰って食べていて、弟はまだ小さいから貰えなくて、私だけ特別だった。
立て続けに声もでないのに3曲歌い、またビールを頼み、メニューにあるアルコールを全部飲んでやろう、と思い始めた。
「ああ、楽しいなぁ」
この部屋では泣いても叫んでも誰も来ない。
私は世界で一番自由で、気楽で、仕事からも開放されて、気分はいいし、タバコもあるし。
「楽しいなぁ!」
マイクを通して絞り出した自分の声に涙が溢れた。
一度、トイレに行くとどこからか電話の呼び出し音が聞こえた。
ああ、もう終わりの時間なのかな、とあかりは思う。
このまま楽しい時間が続けばいいのに。
楽しいのかもわからないな。
もう。なんだよ、人がいい気持ちなのに。
うるさいなぁ。
「はーい、一時間延長しまーす」
元の部屋に戻ったつもりだった。
甲州街道が見えないけれど、それは私がお酒を飲んでいるからで、知らない荷物があるし、テーブルの上もすっかりキレイに片付けられているけれど、そんなの知らないし。
私はあと10分で、歌を歌うの。
おじいちゃんが好きだった歌を全部歌うの。
そうしたら、今この世界は夢で、私は小学生で、弟が居て、ストーブの前で、夢から覚めるかもしれないでしょ?
ねぇ、目の前のキミも、それがわかるでしょ?
私は今世界で一番楽しいの。
世界で一番楽しい夢を見てるの。
だから、私よりもキミのほうがきっと寂しいの。
「ヒトカラくん!めっちゃ寂しいねー!!!」
部屋を間違えたらしい、怒られている、のかもしれない。でもヒトカラくんはただひたすら、困っているように見える。
ふふ、おもしろーい、私が男の人を困らせてる。
そっか、どうせこれは夢だから、私は何を言ってもいいし、許される。たぶん、そう。
夢だから、私はヒトカラくんに優しくしてあげよう、だってほら、弟に似てる。
男の人ってこんな感じなんだな。大きいし、優しいし。
ああ、わたし、女なんだなぁ。こういう風にしてもらったこと、ないや。
帰らないで、一人にしないで、まだ一人になって大丈夫なほど立ち直ってない。
ごめんね、でも、ほら、キミも、私の胸を見るんだね。
じゃあ。
じゃあ。
「5000円でいいよ!」
私の身体に5000円の価値はある?
私の身体に5000円、払える?
これは夢なんかではない、ということに気がついたとき、あかりは安っぽい消毒液の香りがするベッドで横になっていた。
上下運動をしたせいで、少し気持ちが悪い。
自暴自棄に付きあわせてしまって、ごめん、という気持ちがある。だって背中で感じるカレの気配がガチガチに緊張しているのが分かるから。
その割に初めて会ったカレに優しく触られて、「痛くないですか?」と声を掛けられて、壊れ物を扱うよりも優しくされた。人の肌ってこんな風に気持ちがいいんだ、と思い出せた。
せめて、私の身体が良かったなら、罪を償わせて欲しい、そういう気持ちになっていた。
初めて、家族以外の誰かに優しくしたい、と思った。
それを好意と勘違いしてしまうほど、あかりは誰かを愛したことも、愛されたこともなかった。
会社でどんなに陰口を叩かれても、営業補佐というポジションから外されてやったこともない経理部へ配属になっても、本当の私はこんなんじゃない、と思って耐えることが出来た。
半分同棲状態のカレの部屋へ行けば、本当の私になれる。あの時のように、夢の続きを見ることが出来る。一生終わらない楽しい夢のなかで、あかりは生きていけると思っていた。
ふざけあって、声を出して二人で笑って、手を繋いで眠るのが好きになった。きちんとした告白をしたり、されたりはしていないけれど、とても居心地が良かった。カレは誠実で優しく、あかりの要求に全て応えてくれた。女同士でいくようなスイーツの食べ放題にも、フワフワのワンピースを試着するときも、下着を買う時だってついてきてくれた。夜、突然一緒にご飯を食べようって誘っても、お出かけしたいっていっても、我儘を聞いてくれた。帰りたくないって言えば泊めてくれた。カレは私のことだけ考えてくれる、私を最優先にしてくれる、仕事よりも他の誰よりも、私のことが一番大事だと思っている、強く信じている。
なのに、最近、残業が多くなって、急な呼び出しに応じてくれなくなってしまった。
不満がたまる。何を考えているのか分からない。携帯にロックなんてしない、全部見せてくれているはずだった、そう信じていた。
だからこそ、女の名前らしき宛先からの食事の誘いなんて、絶対に断ると思っていた。それなのに。
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「だから、カレの頭のなかを見てみたくて」
「何を考えているのかなぁ、って」
「意外と頭蓋骨って硬いんですよ、うふふ」
「でも何にもわからなかったんです」
「ピンクと白と灰色のグチャグチャしたものしか無くって」
「だから、食べたらわかるかもしれない、って思ったんですけど…」
「うーん…白子、みたいな…?味はよくわからないですけど、香水のニオイがすごくしてて…」
「今ですか?今は幸せですね、仕事のことを考えなくてもいいし、清潔で綺麗だし、みんな優しいし…」
「ごはんがちょっと薄味かなぁって思うんですけど、仕方ないですよね。退院したらカレと一緒にまたスイーツの食べ放題に行きたいなぁって」
「酷いんですよ、お見舞いに来てくれないんです…。会いたいのになぁ。仕事が忙しいんですかね?スマホがないから不自由なんですよ…。」
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